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安久津八幡神社


所在地 山形県置賜郡高畠町大字安久津八幡前2011  由緒については現地看板より引用「安久津八幡神社の成り立ちは、貞観2年(860)に慈覚大師の発願により阿弥陀堂が建立され、その後、前九年の役の際、源義家が安倍一族を平らげ、鎌倉の鶴岡八幡をこの地に勧請したとされていますが、定かではありません。当時盛んに行われた神仏習合の考えから、阿弥陀信仰が八幡信仰に変わっていったとも考えられます。神社は、置賜地方を支配した長井氏、伊達氏の時代には「東八幡宮」とも呼ばれ、最も栄えた時期でした。広大な境内には、別当神宮寺、学頭金蔵院、衆徒頭千殊院をはじめ12坊がありました。鎌倉時代最古の民間文庫として知られている金沢文庫(神奈川県)には、弘長3年(1263)「出羽国屋代庄八幡宮」で修行する能海、湛忍という二人の若い僧が、それぞれ仏書を書写して入庫したものが今でも残されており、当社の古さを物語っております。」。
 訪れたのは2015年10月31日。
祭神 品田別命・伊邪那岐命・伊邪那美命・稲倉魂命・水波女命・天照大神・素盞鳴命・大山咋命・若山咋命・天彦火瓊々杵命・神倭磐礼彦命・別雷命
社格等  
創建 貞観2年(860年)
その他 地図町のリンク

まほろば古の里歴史公園にあります。 色とりどりですが、もう少し晴れていれば良かったですな。 
  参道
観光案内所。やっている感じはなかった。 鳥居 
じじばば石 これもでしょうか? 
 
社号標  
三島池 岩駒稲荷神社 
厳島神社 傾いていますな。 
岩駒稲荷 社殿 
紅葉です。 岩場が本殿? 
近づく。仏さんに見える。
片葉の葦。看板より引用「1062年(前九年の役)八幡太郎源義家が奥州の豪族、阿倍一族討伐の戦いで義家の武将鎌倉権太郎五郎景政が、敵の弓矢で眼を射たれ負傷しました。戦い勝ち奥州を平定し帰途、この地で休みこの池の源泉たる弘坊水にて眼を洗い治療したと言うが、権太郎は片眼となる。この池に生えている葦も片葉になったと伝えられております。」。 県指定有形文化座安久津八幡神社三重塔 
説明書き。右半分の文章は上記で引用したとおり。三重塔は本来は伽藍の一つだが、明治の神仏分離令によって、本社内の寺院が廃絶し、その後の火災などにより寺院が失われたため、三重塔のみが残ったそうです。 正面から。
 
斜めから。  
流鏑馬の馬場
確かに広い。 社務所かな。 
  正面は舞楽殿
手水舎 舞楽殿 
看板より引用「石畳の参道をふさぐように阿弥陀堂(跡)に向かい東向きに立つ建物が舞楽殿です。舞楽殿は、方一間の宝形造、茅葺きで、西側に小さなおろし下げがあり、屋頂には石造の露盤と宝珠が置かれます。舞楽殿では、安久津八幡神社春の例大祭で田植舞が、秋の例大祭で延年がそれぞれ舞われます。建物は、室町末期のものと考えられています。
本来延年は、平安時代の終わり頃より寺院の法会・法要などに舞われたといわれています。安久津では9月15日の秋の例大祭で、神社に奉納されます。それ故地元では長い間「神楽舞」として継承され、舞楽殿も神楽殿の名で呼ばれていました。舞は「振鉾式(燕舞式)」「拝舞」「三躰舞」「太平楽」「眺望楽」「蛇取舞」「姥舞」の七曲が伝えられ、「振鉾式」と「姥舞」の二曲を舞師が、他の五曲を稚児(男児)が舞います。そのため一般には「稚児舞」とも呼ばれます。舞は、舞師である大地権太夫家に、一子相伝の世襲制のもと、44代にわたり代々受け継がれてきました。かつては、奥州名取郡熊野神社や宮内熊野大社に舞師として招かれ、舞を指導していました。安久津延年は、比較的古式をとどめている舞として、昭和63に町指定無形民俗文化財として指定され、平成5年には国の「記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財」に選択されています。三重塔と舞楽殿も昭和30(1955)年8月1日、山形県指定有形文化財に指定されています。」。
子育地蔵尊
ぱっと見、お地蔵さんは見えません。  山中神明宰 
看板より引用「当地屋代郷一帯は宝暦、明和、年間水害旱害、冷害で大不作でした。それに天明3年の大凶作で餓死者も出る程の不況でした。この民苦と窮状を察して、当地代官、山中太郎右衛門が独断で上米蔵を開き施米として郷土の村民を救いました。代官幕府へ上申のため、江戸に旅立つ時一切の責任は我にあり我もし帰らずば、念佛一遍も唱えてほしいと申された。山中代官の民情対する至誠は幕府当局を動かして免祖の恩命さえ下りました。その恩を称して、安久津村、新宿村、竹森村、深沼村の村民が感激を後世に遺すべくの報恩碑です。」。  
再び舞楽殿  
紅葉 日露戦役記念碑
参道 大乗妙典石経塔
耳の神様  
拝殿が見えてきました。 境内建物修築記念 
狛犬 狛犬 
拝殿 看板より引用「安久津八幡神社は、その長い歴史の中で、幾度となく火災に見舞われています。度重なる火災により宝物や記録は失われましたが、わずかに残る神社縁起書や棟札などの記録から、明応9年(1500)伊達尚宗により社殿が再建された記録を最古として、七度焼失し、その度ごとに再建されてきました。現在の本殿は、寛保3年(1743)に焼失した社殿を、米沢藩上杉氏九代重定の代、宝暦5年(1765)に再建されたものです。三間社流造、茅葺き、軒組は和様平三斗といいます。棟の両端には鬼板があげられ、屋根が半円形に張り出す特異な形状をしています。本殿は、近世建築ながらその手法が優れ、江戸時代を代表する建物として、昭和30年県指定有形文化財に指定されました。
もともと本殿は、現在地の北、八幡山の中腹に近いところにあり、現本殿の背後に参道やその両脇の堀、旧本殿などの跡を見ることができます。また、八幡山の中腹や山麓には、神社を囲むように十数基の古墳が点在しています。この古墳群は、鳥居町古墳群と呼ばれるもので、いずれも横穴式石室を有する7世紀後半から8世紀にかけての円墳です。本殿左手裏に見ることができる古墳は、鳥居町3号墳、4号墳です。」。
脇にある狛犬 なかなか迫力があります。 
   
振り返る。   
  本殿
 
時間の関係と道が険しそうだったので、奥の院には行っていません。  鳥居町古墳群があるようだが。
紅葉はあるんですがね。 隈無く歩いたわけではありませんが、古墳はどこにあったのかイマイチ分からず。 
戻って来た。一部漢字ひらがなを替えていますが「置賜は くに乃まほろば 菜種咲き 若葉茂りて 雪山も見ゆ」という歌らしい。 何でしょう?
イチョウ 阿弥陀堂跡 
高畠町郷土資料館 再び三重塔へ。 
順序が逆ですが、参道入口付近。 道路を挟んで向かいにある道の駅たかはた。