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グスコ

 
 与路集落のうち、公民館を境に南半分をグスコ(ゴスコ)という。「与路島ノート」では集落の南西側を指し、「奄美加計呂間島のノロ祭祀」では南半分の更に南半分を指すとしているように文献によって食い違いがあるが、区長さんの言い方では後者の文献と同様の場所を示しているように思われた。一先ず、最大公約数的な区分に従って、集落の南半分全部を紹介します。
 グスコとはあくまで集落の地区名であり、小字は調べる限り、グスコとは呼ばないようである。
 奄美地方では集落のある地区や集落全体に対してグスコ(グスク・ゴスコ)と呼ぶことが時折あり、特に大島南部には多いように思われる。管理人が巡った感じでは、集落内の中で歴史が古い場所にそのような名称が付いている感じがするが、与路でもアシャゲやトネヤはグスコ内にあったようである(もっとも、上記両文献の区分ではグスコ内とはいえない)。 
 もっとも、与路集落内の聖地等の配置を見ると、墓地はサト地区にあり、ミャーやテリャはグスコ地区にはないので、グスコ地区が一番古くて聖地が多いとも一見言えなさそうである。トネヤが二つあったという伝承もあるように、集落が複雑に変遷しているのかも知れない。あるいは集落が複数あったとも解される。


   
集落中心道路とでも言いましょうか。ナーミチと言うらしい。「与路島ノート」区分に従っても、少なくとも右側はグスコ地区と言える。 土俵と公民館。土俵の東側(左側)をミャーとかウンミャーと呼んだという。豊年祭には相撲を取ったという(今でもやってるかは不明)。
   
公民館。昭和55年築だそうだ。 公民館の東側向かいにある与路へき地診療所。かつてはここにアシャゲがあったという。 
   
診療所の南隣、公園のようになった一角。かつてはイベヤマと呼ばれ、クバの木が生えていたよいう。 与路島出身者戦没者銘碑。自分が写っちゃってますね。名前を見ると、請島と同様、津留・津止という名字が目立つ。「つどめ」とでも読むのか?
   
オブジェ。裏辺りにノロ屋敷があるそうだ。 鎮魂と平和について書かれています。
   
よく考えると、グスコ地区ではなくサト地区にあった気がするが、このページにて紹介。蘇鐵之碑です。 ソテツです。与路島はソテツの島と呼ばれたほどソテツが多く生えていたらしい。
   
海側の道。NTT鉄塔が見えます。 こうして見ると、グスコ地区は微高地となっていることが分かる。そういう意味ではグスクの特徴を備えているともいえる。
   
 
   
もはや正確にどこで撮影した写真か思い出せないが、確かグスコ内。 ちょっと下っています。上述のように微高地となるわけです。 
   
「与路島ノート」に従うと、ナーボラリ地区になるのかな。石垣が綺麗。  
   
野面積みとでも言うのか。 単に家が無くなった結果なのか、それとも意味があるのか、原っぱになってます。